Soul of Weed

好きなこと 好きなもの 徒然と

正欲

生きていくうえでの"正解"って何だろうかとよく考える。

きっと、自分の人生だけを捉えた答えならば自身が幸せであるかどうかが基準何じゃないかなと思うのだけれど。その"正解"が世間にとって"正解"であるかは別のことであって。他人から見たら"正解"の人生だって、その人にとっては"不本意"な人生なのかもしれない。

 

マジョリティとマイノリティどちらに属すれば幸せかなんてことには答えはないと思うけれど、生きやすいのは圧倒的にマジョリティに属していることだろうと思う。世間の思う、"普通"のことが当たり前にできる人。それが苦痛でない人。

私は、歳を重ねるごとに"普通"であることを強く求めるようになっている気がする。自身がきっと"普通"ではないことに気づいてしまった怖さ。集団生活を求められる中で"普通"でいられないことを指摘される怖さ。外向きの自分を作らなければ、話が出来なくなった。気がついたら、家の中でも外向きの自分の話しか出来なくなった。

きっと、私はクィアなのだと思う。誰かと交際したいと思ったこともないし、その未来も想像できない。その手の話題を向けられる度、愛想笑いをして「何ででしょうね~」とか言ってる自分がすごく嫌いだ。でも、怖いのです。「あなたはおかしい」と自分以外の人間に指摘されてしまうことが。

 

夏月や佳道達の抱える気持ち、何と無くだけれど自分の抱える生きにくさと重なって、すごく苦しかった。今の世の中ではLGBTQに属する人達の理解は多少なりとも進歩しているのではないかなと思う。まだまだ、偏見も多いとは思うけれど。ただ、Qに対する理解って広がっていくのだろうかと漠然と思う。少数派にすら属することが出来ないほどの少数派。啓喜のように「あり得ない」と切り捨てる人のが多いのが現実だと思う。正直、私は自分のもつ性的な感情の部分において誰かに理解してもらえるとも、肯定してもらえるとも思っていないし、それで良いとも思っている。ただ、否定しないでほしい、干渉しないでいてほしいだけなのです。夏月や佳道のように、「この世界で生きていくために手を組む相手」が見つかったら、どれだけ救われるだろうとは考えるけれど。でも、家族にも友人にも本当の自分の話をする勇気は無い。知られないまま、仮面の自分をうまく生きていく方法をいつだって探してる。

 

啓喜は、悪い人ではないのだろうと思う。ただ、彼の思う"普通"が世間の思う"普通"と合致して生きてこれただけなのだろうと。部屋が散らかっていようと、食事がレトルトだろうと文句は言わないけれど、準備してくれたことや車で送ってくれたことに対してお礼も言わない。何と言うか、周囲に対して温度が低くて無関心な人と言う印象。きっと彼は自分のことを"正解"だと思って生きている人だろうと思う。でも、彼は間違ってはいないかもしれないけれど決して"正解"なわけでもなくて、ただ世間の正論を正義としているのだろうと。彼は夏月の「当たり前のこと」を聞いて、どう感じたのだろうか。真っ黒な空洞の瞳が怖かった。

 

夏月の感じる生きにくさ、どこかで自分も感じたことのある息苦しさだなと思った。祖父母とテレビを見ていたとき。ショッピングモールで話をしているとき。同級生の結婚式に出席したとき。息苦しいと思う。佳道とは本当に良きパートナーとして付き合っていたのだろう。この世界の"普通"に擬態して生きて行く為の愛。性的な感情はなくとも、彼女たちの間に愛情はあったように思うのです。きちんと瞳に覇気があったから。啓喜に伝えた「居なくならないから」に私の気持ちも救われた気がしました。

 

佳道の言葉。朝起きたとき別の人になってはいないかとか、無事に死ぬ為に生きているとか、知っている感情だった。やっと見つけた自分たちが自分たちらしくいられる場所。きっと失うのが早いかもしれないことに気づいてた。啓喜と対峙した時の彼の落ち着きが悲しかった。

 

大也は壁を作ることで、自分を守ってきたのだろうと思う。八重子に背中を押されて、佳道たちと出会って、やっと彼が彼として生きれた時だったのに、悔しいだろうなと思う。ただ、淡々と啓喜に自身の事実を話して行く姿に息が出来なくなった。

 

八重子は真っすぐな人だった。華奢な丸まった背中と不安げに窄められた唇。あんなに怯えているのに、言葉も行動も一番真っすぐだった。大也のこと「大事な人」と表現したこと。大也に自分の気持ちを打ち明けたこと。強くて優しい人だと思った。

 

「誰もひとりじゃないと良い。」そんな日が来れば良いなと思う。本当の意味で誰もが孤独じゃなくなる日が来たら良いなと思う。

 

P.S.

上映後の舞台挨拶は、打って変わって和やかで優しい空気ですごくホッとしました。優しい人たちが集って作り上げられた映画なのだなと。

 

 

 

 

サンソン−ルイ16世の首を刎ねた男−再始動

 

2年前配信で観たとき、「配信で良かった」とさえ思ってしまった作品。テーマが重く、多くのものを訴えかけてくる作品であることを知っていたからこそ、生の舞台で観られると言うことにすごく緊張しました。

コロナ禍を経て3年以上ぶりに生で観ることができた舞台。やはり、全身で演技を音楽を受け止めて改めてとてもとても大きなパワーのある作品だと思いました。舞台だからこそできる作品。映画でもテレビでも成し得ない、舞台でしかきっと表現することのできない重く、苦しいテーマで。決して、楽しかったで終わることのできる作品ではないけれど、訴えかけてくる思いは今の時代だからこそ訴えかけられるべきことなのではと感じました。

 

舞台となっているフランス革命前後のパリの街。「レ・ミゼラブル」や「1789」、「マリー・アントワネット」など様々な作品で触れてきた題材ですが、市民からの視点あるいは王族からの視点と2つの視点で作られているものが多く、市民、王族に加えて、中立であった人からの視点の「サンソン」はより多くのメッセージを訴えかけてくるような気がします。

 

私が、この作品に触れて考えさせられたことは大きく3つ。

1つ目は死刑制度について。人が人を裁き"死"を宣告すること。これがどれほど苦しいものなのか、まざまざと見せつけられたように思います。現在でも、日本には死刑制度が残っていますが、生きていて死刑制度を意識することって、実はあまりないと思っていて。自身の身に起こりうることとして考えたことはほとんど無くて。死刑の判決が出たと聞いても、その判決を下し、刑を執行する人に対して思いを向ける人は少ないと思うのです。現在、残っている死刑制度とフランス革命の頃の死刑制度は全く質の違うものだと認識していますが、死刑執行人にかかる重圧なんかは全く変わっていないのだろうと思います。サンソンは死刑執行人でありながら死刑廃止論者の一人でもあって。死刑を無くすことが出来ないのであれば、少しでも人道的に刑を執行できないかと模索し、葛藤していくサンソンの姿が脳裏に焼き付いています。

 

2つ目は、宿命について。世襲制で死刑執行人を務めなければならなかったサンソン。王の権利を神から賜ったものと信じて生きていたルイ16世。どちらも自身が選んで進んだ人生では無くて、生まれたときからすでにレールは敷かれていて、大きく外れることなく大人になった人たちなのだと。自身の思いとは別に、進まなければならない人生があることは辛く、苦しいことだと思います。

 

3つ目は、自身の考えを貫くと言うことについて。登場人物達が激動の時代の中、約40年の歳月を生きていく中で考え方が変わっていく様が描かれていて。時代とともに口にする言葉は変わっていても、礎となる思いは一貫している人。時代とともに、礎となっていた思いさえも見失っていってしまった人。時代の渦に飲み込まれ、自身の思いを飲み込まざるを得なかった人。私は、どんな生き方が出来るだろうかと考えさせられました。「自分に誇りを持って生きることができるか」その問いに自信を持ってYESと答えられる人って意外と少ないんじゃないかなとも思います。いつか、自分の人生を問われたとき胸を張って「自分を全うした生き方だった」と言えるような考え方、選択が出来るようになりたいです。

 

 

物語の始め、シャルル=アンリ・サンソンは27歳。今の私と同い年。自分に置き換えて、いくら世襲制だと言われても、死刑執行人というあまりにも重すぎる職務を務める精神力。生半可なものじゃないと思うのです。生まれたときから決まっていた宿命。簡単に受け入れられるはずのないことで、そんな中でどうすればより自身が誇りを持って生きていけるのかを模索する志の高さ。格好良い人だと思います。三千人の死刑執行を行ってもなお、自身の仕事を、誰にも変わることのできない仕事であると自負し、その重責を担う姿。法に従順でありながら、自身の考え方を見失うことなく、死刑廃止、刑罰の平等を訴え、真っ直ぐ立ち向かい続ける姿。本当なら誰よりも歴史に名を刻むべき人だったのかもしれないと思います。シャルルは客席に背を向けている時間が、案外長かったように感じたのですが、真っ赤なジャケットを着た背中が悲しみを、憤りを何よりも語っていた気がします。

私は、ナポレオンとの最後の会話の「仕事場ですから。」と言う台詞がなぜだかとても心に残っています。自身の仕事に誇りを持ち、必ず全うするという思いがその一言に込められていると感じました。

 

ルイ16世は、若くして王の座について世間というものをあまり知らなかったかもしれません。人を思う心があるだけでは、人の上に立ち国を治めることは出来ない。彼にしても、マリー=アントワネットにしても傍から見れば、善でも悪でもないのだと思います。ただ、貧しい生活をする市民から見れば豪華絢爛な宮殿に住まい、きれいな衣服を身にまとって、食事にも困らない彼らは憎むべき対象だったに違いないとも思いました。

 

欲に忠実だった、ナポリオーネ・ブオナパルテ。コルシカ島への愛国精神、いわばナショナリズムのようなものを持っていながらフランスの兵士としてのし上がり、皇帝まで登りつめた人。兵士としてシャルルと向き合っていたときと皇帝として向き合っていたとき、後者のほうが立場としては威圧感があるはずなのに、兵士としてのプライドを持ってぶつかっていたときのほうがよほど威厳がありました。自分を貫き通しているようにも見えるけれど、彼も時代の波にのまれてしまった一人なのだと思います。

 

ジャンは誰よりも愚直で真っ直ぐな人で、誰よりも芯のぶれなかった人。自分の信じた、願った未来のために力を惜しまなかった人。エレーヌの純真な心とジャンの愚直な行動力はこの戯曲の光だと思いました。彼らが、真っ直ぐに生き抜いてくれたからただただ悲しい物語にはならなかった。現在に続く、問いかけをしてくれる役割に感じました。

 

ジャンと共に、ギロチンの制作にも関わり、人道的な死刑制度を求め、平等な刑罰を求めていた人で、若者たちの中でも冷静で周りが見えていたように思うトビアス。一番、大人の振る舞いを出来る人というか、中立の立場を取ることが出来る人だったように思います。そんな人が、最後にはギロチンをビジネスとしてしまったことが無性に悲しかった。エレーヌの「人を殺す仕事で?」という言葉が彼の心を動かしてくれていないかと願ってしまう自分がいます。

 

サン=ジュストはとにかく行動力のある人だと思います。階級社会への反発心で、猪突猛進に突っ込んでいった人。見方によっては誰よりも真っ直ぐだったのかもしれないとも思うのです。ロベスピエールと共に死刑廃止を訴えていたはずが、気付けば王を処刑し、自らも処刑されてしまうという皮肉な最期。時代に翻弄され続けた運命だなと。

 

シャルルの父バチスト。息子を思う父でありながら、職務の師。きっと、シャルルと同じように葛藤しながら死刑執行人を務めていたのだろうと思います。死刑廃止を訴える息子に対して、咎めるような言葉がありましたが、それも彼自身が仕事に対して誇りを持っていたからなのだろうと感じました。

 

シャルルと共に、人道的に死刑執行を行えるようにと尽力をしたジョゼフ・ギヨタン。人道的だと信じて作り上げた断頭台が、結局死刑の数を増やしてしまったかもしれないこと。そして、その断頭台が自身の名前ギヨティーヌで定着してしまったこと。やるせなかったろうと思います。

 

 

断頭台の刃が落ちる音が、脳内にずっとこびりついています。全身で浴びた、人々の叫びも。

 

 

 

 

舞台的なことでいうと、正面の3階建ての箱、プロジェクションマッピングは幻想的な印象で登場人物の心の動きを映し出しているような気がしました。

処刑が行われる瞬間のグロの動きも印象的でした。死刑執行の瞬間をそう表現するのだなと。舞台ならではの表現という感じ。

 

 

決して、楽しかったと言える舞台ではないと思います。でも、混沌とした現代を生きていかねばならない私達には必要なメッセージの詰まった戯曲だと思います。

この変わりゆく時代をどう生きていくのかとサンソンの真っ直ぐな瞳が問いかけてきているようなポスタービジュアル。

彼のように、葛藤しても自身の在り方を見失わない人であれたらなと思います。

 

 

 

2023年5月20日(土)

まつもと市民芸術館 主ホール 3階4列23番

1幕 13:00〜14:00

2幕 14:20〜15:25

舞台 サンソン-ルイ16世の首を刎ねた男- 公式サイト

 

窓辺にて

映画の内容を初めて知ったとき、きっと好きな映画だろうなと思った。

映画を知ることが出来たきっかけは吾郎さんだったけれど、もし吾郎さんが出ていなくても観に行きたいと思っただろうと言うテーマだった。〈好きという感情そのもの〉について、私も知りたかった。

 

予告編が公開されて、たった60秒の中で3つも心に刺さる台詞があった。

「私のこと、好きだった時あった?」

「正直であることは必ず誰かを傷つける」

「自分のそういう感情の乏しさがたまに怖くなるんです」

どの台詞も、知っている感情だなと思った。自分も一度は考えたことのある感情だった。

1つ目の台詞に関しては、自分について自信がない私にとっては常について回る感情の1つで。私が友人だと思っている人は果たして、私のことを友人だと思ってくれているのか。とか悩み始めると出口のないトンネルに入ってしまうもので。相手があるもの、家族だろうと友人だろうと所詮他人に過ぎないのだと言い聞かせてみたり。自分に向けられる感情はいまいちわからないものだなと思う。

2つ目の台詞、必ず誰かを傷つけるとまで思ったことはないけれど。私が正直に突き進むことで、きっと傷つけてしまうような気がして、嘘をついたことは何度もあるなと思った。それが正しかったかどうかは分からないけれど。正直であることが必ずしも正解ではないことを成長とともに知った気がする。

3つ目の台詞に関しては、私は人に対して好きという感情を人並みに持てていない自覚があって。周囲の人との温度差に自分自身で引いてしまうときさえある。かと言って、人が嫌いな訳では無いし、人に嫌われるのは怖いと言う感情も持ち合わせていて。身勝手だなとは思うけれど、それなりに上手くやっていきたい思いはあって。何というか、LikeであってLoveではない感情しか持ち合わせていないような気がするのです。

26歳になると割と結婚している子も増えてきて、友達との会話にもそういう話が出てきたりして。周りの子が結婚に対して焦っているのを見て、私は自分の感情の希薄さに対して焦るようになって。まだ、付き合うということさえ知らないのに。ものすごく遅れてるんだろうなとは思っていても、持てない感情を持っているかのように偽って誰かの横に立つのは間違っているような気がして。きっと罪悪感で押しつぶされてしまうだろうなと思えて。どうしたら良いのかわからない感情でいっぱいで、少し息苦しくて。

 

だから、恋愛をテーマにしたものが嫌いだった。自分の欠如を指摘されているような気がして苦手だった。観ないと言う選択をすることで不安に蓋をしていた。

もし「〈等身大の恋愛模様〉」と書かれているだけだったら絶対に観に行こうとは思わなかっただろうと思う。きっと、予告編すら見なかった。

でも、「〈好きという感情そのもの〉について深く掘り下げた」って言葉にものすごく惹かれて、観たいと思った。きっと好きになれるだろうと思った。私の迷子になっている感情について教えてもらいたかった。

 

 

 

映画を観て、一番の感想は

余白があって優しい温度の映画だなと言うこと。

例えば、茂巳さんの実の両親はどうされているのかなとか、紗衣さんはハルさんにどう伝えて、ハルさんはどんな言葉をかけたのかなとか、留亜ちゃんは誰と暮らしているのかなとか。茂巳さんとマサさんはどうやって友人になったのだろうかとか。映画冒頭の留亜ちゃんの言葉「全てを書きますかね?」の真骨頂の表現だなと思う。観た人が各々に想像ができる余白。登場する人の背景を描き切らない優しさ。観た人が自身を誰かしらに投影できるような余白。他にも不倫を描くにしても、情事前後の描写に留まっていて直接的な表現がされていないことが心地良かった。

答えが一つじゃないよと教えてくれるのも。

ハルさんの言う「忙しいことは何よりの幸せ」に相反するカワナベさんの労働に対する思い。話し合って、向き合って別れを決めた夫婦。一方で、全ては話さずともこれからも共に生活をしていくことを決めた夫婦。どれも正解なんだよって言ってくれているような気がした。

 

それから、心に刺さる台詞が本編には数え切れないほど沢山あった。

ニュアンスにはなってしまうけれど、「どんな選択をしても後悔はする」とか「お酒を呑めないやつは面白くない、とか言うやつがいるから僕はここにいるんです」とか「生きていて誰かの役にたてているんだろうか」とか他にもいっぱい。今まで生きていて、不意に感じたことのある思いを改めて認識させてくれる感じ。上手く表現できなかった感情を言葉にしてくれたような感覚。

たまにあるスクリーンの向こう側の物語じゃなくて、きちんとこちら側に降りてきてくれた物語。主軸のストーリーのために周囲の人の感情を置き去りにした突飛なストーリーじゃなくて、主人公も周囲の人もみんなの感情を無下にせずゆっくりきちんと回収して、観ている側の感情も追いつかせてくれるような。今も何処かで茂巳さん達は生きているんだろうなと思わせてくれる物語だと思った。嫌なやつがいない、ただ不器用でいじらしい人達の物語。

 

茂巳さんは、自身のことを感情が乏しいと表現していたけれど私はそうは思わなかった。ちゃんと慈愛のある人だと思った。ハルさんを訪ねるとき、留亜ちゃんと話していたある種"パフェ"なチーズケーキを持って行ってたり、ハルさんを撮った写真が温かかったり、紗衣さんのためにどうするのが正解なのかと悩んだり。そして、何より紗衣さんに対してちゃんと怒っているじゃないと。少し自分に対して自信がないだけで、自分の持っている愛情に気づけていないだけでちゃんと紗衣さんのことが好きだし、大切にしてるよなと感じた。だからこそ、愛の尺度を他人と比べる必要なんてないよなと彼を見ていると思うことができた。私には、好きを超えた何かを感じることが出来た。隣りにいたらもどかしいのかもなとも思うけれど。留亜ちゃんとホテルで過ごした翌朝、シャワーを浴びるとき布団に潜っていてと言われて素直に潜っているところとか、タクシー運転手のたっちゃんに感化されてパチンコに行って、ビギナーズラックに当たって驚いているところとか年上の男性に対する表現ではないけれど微笑ましいなと思った。「期待とか理解って時に残酷だから」という言葉も茂巳さんが誠実だからこそできる考え方なのだろうと思う。素直で不器用で誠実で、とても魅力的な人です。

紗衣さんは、本当はちゃんと茂巳さんの愛に気づいてたんじゃないかなと思う。でも、言葉にしてほしいときってあるんだよなと。頭でわかっていても、心が納得できないみたいな。だから、きっと最後まで好きだったんですよねとか。茂巳さんと紗衣さんは似ているなと思う。自身に投げかけられた質問に対して「あなたはどう思っているの?」と返すとことか。

留亜ちゃんは、繊細だけど大胆で、高校生らしい素直さが微笑ましかった。親子ほど年の離れた茂巳さんをモデルに会わせてあげるといって振り回してみたり、急にラブホテルに呼び出して相談相手にしてみたり。無邪気だなと思う一方で、時々見せる大人よりよっぽど大人の達観した考え方は育った環境がそうさせるのかなとか、色々と考えさせられる子だなと。理解とか期待についての問いに、信頼と答えを出した留亜ちゃんの考え方が好きです。

留亜ちゃんの彼氏、もとい水木くん。素直でわかりやすい。何だかんだ言っても留亜ちゃんのことを大切に思っているのも伝わるし、茂巳さんを後ろに乗せてバイクで走ってくれたり、ちょっとアマノジャクぽいけれど良い子なんだろう。最後の場面の茂巳さんとのシーン、すごく面白かった。その小説のモデルとも言える人が茂巳さんだとは気づいてないからなんだけれども、本人にサイコパスって言っちゃてるよって笑ってしまった。あと、無限にLemonが流れていた件も可笑しかった。

荒川円さん。彼は、きっと書ける小説家になれるんじゃないかなと思う。紗衣さんを思っていたからと言えど、茂巳さん本人さえ気づいていなかった(あるいは表現してこなかった)小説を書かない理由を見出だせるほどに繊細な人なのだから。そして、自分の中の紗衣さんへの思いを昇華させることが出来たのだろうから。書ける人になっていることを心から願っています。

ゆきのさんは、茂巳さんが家を訪ねて相談していたとき、もちろん茂巳さんに対しても怒っていたのだろうけれど。どちらかといえば隣に座っているマサさんに対して怒っていたのだろうなと。好きだから切り出せない、きっとそういう人って多いと思うのです。自分を選んでもらえないかもしれない怖さ。よそ見をされるということで自信ってなくなってしまう。それでも、マサさんの決断を受け止めて一緒に進んでいくことを決めたゆきのさんは強い人だなと思います。

マサさんは、ずるい人だなと思いました。自分の仕事については真摯な人なのだろうけれど。人としてはいかがなものか。年下の女の子、悩ませてやるなよとか老婆心が出てきてしまう。

藤沢さんも罪悪感とマサさんへの素直な思いの狭間で悩んでて、テレビでは明るいキャラクターを演じて。嘘をつかなきゃいけない辛さだってあるよなと思う。

「悩みのない人なんていないですから」の台詞の通りだなと思う。生きることは悩むことなんだなと。贅沢で良いじゃないか。しんどいけれど、悩むことが生きることなのだとしたら、悩みがあることさえ幸せなのかもしれないなと少しだけ思うことができた。ほんと少しだけ。

登場する人全員、冷たい人が居なくて心地良かった。パチンコで隣りに座ってたお姉さんの真面目さとかタクシー運転手の面白のたっちゃんの三日三晩考えた馬の話とか。好きだなと思う。

 

ストーリーとは別に、光の使い方と音楽の使い方がすごく好きです。ガラスのコップに日光を透かしてできる光の指輪とか。綺麗で優しい光だった。息遣いを感じられる会話のシーンでは音楽が流れないところも好きだった。呼吸音も服のこすれる音も生活することで生まれる音が聞こえてくるのが、すごく好きだった。

 

いっぱい泣いて、いっぱい笑ってすごく充実した気持ちになれました。他にも色々と思ったことがあったのに一度では覚えきれなかった。自分の記憶力が残念。体感時間は短かったけれど、143分のボリュームはちゃんとあったんだなと。

壮大な音楽があるわけでもなく、大きな起承転結があるわけでもなく、ただただ温かな会話劇で。でも、それがすごく居心地の良い映画でした。

 

ただ、私自身の迷子の感情に対する不安は解決はしてくれなかったかな。肯定はしてくれた気がするけれど。だって、茂巳さんはちゃんと愛せる人だったのだもの。でも、分かったこともある。愛情の種類も表現も無限にあるのだろうということ。だから、人と違うからといって焦らなくても良いのかもしれないなと。難しいけれど、もう少しだけ寛容的な考え方で生きられたらなと思います。

 

 

2022年11月6日(日)

ユナイテッドシネマ豊橋18

11スクリーン G-7

11:30〜14:05

 

映画『窓辺にて』公式サイト

 

 

 

my favorite

このブログを書き始めて、早6年。

書き始めた頃と比べると、私も変わったし世の中も変わった。

年に何度か舞台を観て、頑張って働いてよかったって思うことすら簡単じゃなくなった。元々、簡単だったわけじゃないけれど、何というかハードルがものすごく高くなった。チケットが取れないとかそういう嬉し悲しな事情じゃなくて、そもそも現場に出向けない。私は家の事情だけれど、事情は違えどそういう方は多いと思う。仕事柄とかね。

そんな中でも、少し良かったと思えたのは配信が増えたこと。(今はまた減ってしまってますが…)興行側に立って考えれば、配信ってすごく大変で理に適わないものというか利益にはならないものなのかもしれないけれど観客側としては、チケットが足りないこともないし、自宅で見ることができるから体調とか諸々気にしなければいけないことが減るし、すごくありがたいもので。もちろん、生にはかなわないことは十二分にわかっているつもりだけれど。少しでも、その現場の空気を感じられることが嬉しかった。

友達と旅行に行くことも難しくなった。たった年に一度のそれすらもできないことが虚しかった。

世の中が少しずつ、通常の経済に戻っていって、でも現状コロナ禍から脱したわけではなくて。自分だけじゃないことはわかっていても、時代に取り残されたような気持ちになって、なんとなく生きる楽しみが減ったような気持ちになって。我儘なことは承知の上で、観劇したり、旅行に行ったりできる人が羨ましいと自分の置かれた状況を恨んでみたり。負のスパイラルからはまだ抜け出せていない。

 

大人になったからなのか、自分を取り巻く状況が変わったからなのか考え方とか感じ方も大きく変わった気がする。数年前の自分のブログを見て、当時はそんなふうに思ってたんだって少し悲しかった。気持ちが変わってしまったことが何故かわからないけど無性に悲しかった。

このブログを始めたきっかけは、たぶんSMAPの解散だった。あの頃は間違いなく、グループに対して喪失感があって、戻ってきてほしいと思っていたはず。そのはずなのに、今はその気持ちが思い出せない。グループとしてどこが好きだったのか曖昧で、苦しい思い出のが先立ってしまう。あの頃、好きだった曲は殆ど今でも好きなのだけれど。崩れだしたきっかけはわからないけれど、過去の自分が理解できないほどには気持ちが離れてしまったことは確かで、少し罪悪感もあって。でも、何が嫌なのかは明確にあって、過去のものだからこれから良くなっていくかもという希望的観測が通用しないのが決定打なのだろうと思う。だから、今はできる限り過去のものは封印して、吾郎さん単体だけを追っている感じにシフトしている。いわゆるオンリーなのだろう。箱推しには戻れないと思う。他の皆さんを否定するつもりはないし嫌いなわけでもないけれど、好きかと言われると…理由は意外とはっきり自分の中ではあるのだけれど、それを言葉にすることはなんとなく間違っている気がして、心のうちに秘めておくべきなのかなと思ってる。間違っているというか、誰かを傷つけることになる気がするのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

吾郎さんのことは、相も変わらず好きだけれど。若い子たちにもいわゆる「推し」が出来た。吾郎さんのときにちょっとばかし苦い思い出があって、いまだに基本的には誰にも(特に家族には)打ち明けてはいないのだけれど。否定されると辛いから。

推しの若い子たちは、たぶん本格的に応援してる人たちからしたらどこがファンなんだと怒られそうなくらいフワッと応援してるだけなんだけれど。ファンクラブも入ってないし、現場に行けたこともないし。CDを買ったことがあるくらい。言うて、吾郎さんもファンクラブに入っていたことはないし、現場も一度だけだしこちらも怒られそう案件なのかもしれない(笑)熱量≠使ったお金とは思っていないけれど、触れられるコンテンツが多いほうがちゃんと応援というか還元できるんだろうなとは思う。私はSNSも発信はほとんどしてないし、ファンだと宣言できるほどの人間ではない。お茶の間ファンと言うやつかもしれない。お茶の間とか言いつつ、バラエティ番組はほとんど見れないのでそれすらも言っていいのやら…

 

好きになったきっかけってなんだろうかと考えると、最初はほぼほぼ一目惚れ。好きな系統のお顔なんですよね。あとは、瞳が印象的。それをきっかけに色々調べてみて沼にはまっていく感じ。私は、「好きだから」で全てを肯定できるタイプではないのでどんなに好きな人でも苦手なとことか、嫌だなって思ってしまう所はあるけれどそれ以上に応援したいなと思う人達だなと思う。

 

モーニング娘。’22の石田亜佑美さん。

一目惚れしたのは、2016年のテレ東音楽祭で恋愛レボリューション21(updated)を歌っているのを見たとき。めっちゃ、可愛い子がいる!と思ったのを今も覚えてる。元々、モーニング娘。に興味があった訳じゃないんだけれど、その年に吾郎さんが不機嫌な果実の番宣でモーニング娘。の子たちと共演してて、あの時の子たちだと思って見ていたのがきっかけ。ダンスを得意としていて、本当に楽しそうに踊ってるのを見ると、同い年なのだけれど「かわいいなぁ」と思う。負けず嫌いの努力家。メンバーカラーのロイヤルブルーがよく似合う。ネコちゃんみたいなクリっとした大きな目で表情がコロコロ変わって。表情であれだけ色んなことを伝えられるってすごいなと思う。歌っているときも、お芝居しているときも表現の仕方が好きだなと思います。

 

SnowMan向井康二さん。

初めて見たのは、会社の後輩ちゃんの話を聞いていて見てみたYouTube。その時は、好きなお顔だなとふわっと思ったくらいで。次に見かけたのが、カメラの雑誌。たまに読んでた、女性向けっぽい雑誌の特集で素敵な写真だなと思って見てて、彼の撮った写真に一目惚れした。あとから文章を読んで、あれこの子って…と思った。そこから、彼のことが気になってしまって色々、動画とか見てたら歌声におちました。クセ強めの声だとは思うのですが、好きな歌声だなと思います。純粋で自己犠牲心強め。努力は怠らない。多趣味。ちょっと空回りしがちなところとか、行動が軽率なところはあると思うけれどなんか憎めない感じ。歳上なのに、とある動画を見て不覚にもかわいいなと思ってしまったのが悔しい(笑)。宮舘さんと居るときの感じが好き。WIN WINって感じがするからなのかなと思う。持ちつ持たれつの関係って良いよなと思う。

 

 

3人に共通点なんてなさそうに思えるけれど、よく考えると結構あった。

 

1つ目は、人が大好きなのにどこか孤高な所。

割とコミュニケーション力高めで人と話したりするのが大好きって感じなのに、心の底から気を許している人は少なそうな感じというか。心の中の一番大事にしたい部分は誰にも見せてない感じ。人のために精一杯尽力するけど、それ以上に自分対する努力を怠ってない感じ。

 

2つ目は、大事なことは無言実行な所。

若い子たちは、割と悔しいってことを言葉で表すことも多いし、おしゃべりなキャラクターの子たちだけれど。たぶん、本当に大事にしてることは簡単には口にしてないように感じてる。

 

3つ目は、表現の仕方。

お芝居とか歌声とかダンスとか、それぞれ得意にしてることはバラバラだけれど、みんな素敵な表現力だなと思う。そして、カメラで切り取る世界観がすごく好き。写真は撮影者の表現したいものを写し取ったものだと思っているので、好きな写真を撮る方に出会うとすごく嬉しい。共感できることって幸せなことだなと思う。

 

4つ目は、繊細そうで少し影があるところ。

吾郎さんに関しては、20代前半のビジュアルが好きすぎて‥あの影のある感じとか、繊細そうな壊れそうなでもしっかり己を持っている感じ。歳を重ねて、より深みのある、繊細そうだけれどどっしりとした頼りがいのある男性と言う感じのところに惹かれます。若手の子たちは、どちらかというと底抜けに明るいキャラクターの子たちだけれど、時々感じさせられる影の部分や繊細なんだろうなと読み取れる記事とかが私にとっては魅力だなと思う。

 

5つ目は、心奪われるような瞳。

真っ黒で大きな瞳。ハイライトがしっかり入る瞳。色素が薄めで綺麗な瞳。バラバラだけどみんな魅力的。お顔が好きというより、目が魅力的なんだろうなと思う。

 

他にもいっぱい素敵なところはあるし、共通点もあるかもしれないけれど…とりあえず、ここまで。

 

 

 

 

25歳の私の気持ちの記録。

 

 

サンソン‐ルイ16世の首を刎ねた男‐

No.9と同じ脚本、演出、音楽の座組と知って

どうしても観てみたかった作品。

チケットのページを開いて、少し悩んだりもしたけれど、この時期に遠出を出来るはずもなく。「配信はありません」の文字に絶望し。

いつか、再演があれば…なんて思っていたのですが。

災い転じてと言って良いのかは分かりませんが、緊急事態宣言の発令の影響を受け、配信が決まったとき、嬉しかった。地方組も観れるんだって。ホッとしました。

劇場での出会いを大切に。その気持ちも十二分に理解できるのですが、先の見えない、いつになったら劇場に行くことが出来るかも分からず、寂しくて悔しくて仕方の無かった私にとっては、感謝してもしきれないくらい配信はありがたかった。心の救いでした。

 

サンソンを観劇して、一番に思ったことは

「配信で良かった」でした。

基本的には、やっぱり生が一番だって思うのですが、あまりにもテーマが重かった。きっと劇場で初見だったら席から立てなかっただろうと思います。それくらい、ずしりと心に入り込んでくる作品でした。

 

サンソンの死刑に対する思い。そして、自分の請け負う仕事へ対する思い。矛盾するようで、一貫性のある思い。

ルイ16世を斬首したあと、狂ってしまったかのように次々と刑を執行する姿が悲しくて、やるせなくて。そして、年老いてからナポレオンと対峙した際の「仕事場ですから」の言葉。若き日のサンソンが口にした「誇りをもって」という言葉。真っ直ぐな人だったのだろうと思いました。だからこそ、辛かったろうと。

少しでもよい方向へと考え、製作した断頭台。もしかしたら、そのせいで死刑が増えたのではと思い悩む姿。ルイ16世に謁見し話を聞いてもらい、賛同してもらったときの優しい表情。色々な場面が記憶に焼き付いています。

 

初めは同じ方向を向いていたはずのトビアス、ジャン、サン‐ジュスト。最後は3人バラバラの道を歩いていったこともすごく印象的でした。

結局、最後までより良き世の中への気持ちを捨てなかったのは、一番激動だったとも思えるジャンで。エレーヌが居てくれたからなのか、彼自身が強かったからなのか。彼の生き方が格好いいなと思います。ジャンとエレーヌは混沌とした世界のなかでぶれることなく真っ直ぐに生きている、希望のような存在に思えました。

ビアスは最終的にギロチンの販売を商売にしていて、なんだか少し寂しかった。刑に対する思いが変わってしまった感じがやるせなかった。

サン‐ジュストはロベスピエールと共に革命の波にのまれてしまったんだなと思いました。死刑廃止や市民の平等な暮らしを願っていたはずが、いつしか王室への敵対心だけに変わり。自分達が先導してきたはずの波にのまれて処刑台に立たされて。人の強さと弱さの象徴のように感じました。結局、自身が皇帝となって戻ってきたナポレオンもそうかもしれません。

 

フランス革命の描写を観ていて、ものすごい大きなエネルギーを感じて、いまを生きてる私たちにあれだけの情熱が有るのだろうかとふと思いました。国柄もあるのかもしれませんが、あそこまでの勢いや情熱を持った若者って少ないんじゃないかなと思うのです。(かく言うわたしも大多数に属してしまっているのですが。)あれだけのエネルギーがあれば自分達の生きる世界って変えられるんだろうなとも思うのです。

 

話変わって、舞台ならではの演出が好きです。スローモーションがあって、プロジェクションマッピングがあって。発見するのが愉しい。あぁ、舞台だなと思わされます。

カーテンコールも大好きです。舞台の世界に生きていた役者さん達が徐々にこちらの世界に戻ってくる感じ、大好きです。

 

 

自分の心の弱いところに訴えかけてくる作品で、しんどかった。でも、観て良かったとすごく感じる作品で。うまくまとめられないけれど、生きていくという大きな課題に対しての問題提示をされた気がしました。

 

自分の生き方に誇りをもてるか。

自分の仕事に誇りをもてるか。

「誇り」とは何なのか。

今はまだ答えにたどり着けませんが、一生懸命考えることが第一歩かなと思いました。

 

まとまってないけど、ひとまず感想を。

 

追記

フランス革命を題材にした作品は

マリー・アントワネット」とか「1789‐バスティーユの恋人たち‐」とか「レ・ミゼラフブル」とかミュージカルで触れてきたけれど、マリー・アントワネット達の視点か民衆からの視点かどちらかからの視点で描かれていて、ちょうど間に当たる視点がサンソンだったのかなと思います。歴史的にもルイ16世マリー・アントワネットなど王族や革命を起こした市民は脚光を浴びるけれど、狭間で戦っていた人達はなかなか注目されることは無かったように感じます。でも、その立場の人がいたからこそ歴史が成り立ったわけで。

やっぱり、学校の勉強だけでは分かり得ないことってたくさんあるんだよなと。

 

そして、この作品がストレートプレイだったこと。個人的にはミュージカル大好きなんですけれど、この作品はストレートプレイで良かったなと思います。上手く言えないのですが、ミュージカルだと良くも悪くも全然違った感じになっちゃうだろうなと思うのです。まっすぐに飛んでくる台詞があの世界観を完成させたんだろうと感じました。

 

 

 

 

2021年6月27日(日)

Streaming+配信

12:00~

 

モーツァルト!

2018年に御園座で古川雄大さんバージョンを観劇して以来、3年ぶりのモーツァルト

井上芳雄さんバージョンもDVDで観たことはあったけれど、山崎育三郎さんは初めて。

3人それぞれ、モーツァルトのキャラクター像が少しずつ違っていて、面白いなと思います。

なんとなく、井上さんが一番明るいと言うか軽やかな感じ。古川さんは少し優等生よりでやんちゃ感が控えめ。山崎さんは一番影の部分が濃いように感じました。

 

自身との葛藤、家族との関係。シカネーダーをはじめとする周りの友人達。バルトシュテッテン男爵婦人やコロレド大司教との関係。

 

端から見れば、成功者のはずと思ってみたり、でもモーツァルト自身はずっと苦しかったのかななんて思ったり。

思うことはたくさんあるのに、うまく言葉にできないのがもどかしい。

 

 

モーツァルトを観るとどうしてもベートーヴェン(No.9‐不滅の旋律‐)と比べあわせて見たくなるのですが、どちらも父親に認めてもらいたい気持ちが大きいんだよなと思います。

 

 

ミュージカルは音楽に溢れているのがやっぱり良いなぁと思います。あんな風に歌えるようになりたい。(まあ、なれたら歌手なりなんなりになれるのですが。)

出来ることなら、生で観たかった。いつか、また劇場で観たい作品のひとつです。

 

2021年6月6日(日)

uP!!!配信

17:00~

カルミナ・ブラーナ

カルミナ・ブラーナ

コーラスで歌うことで出会った曲。

バレエには今まで縁がなくて、どんなものなのか分からず、見始めたものの気がついたら歌からなされる世界に引き込まれていました。

 

コロナ渦ゆえの演出。

女神が産み落とした悪魔の子が

人間が生み出してしまったコロナウイルスと被るような演出。

 

難しかったけれど、おもしろかった。

体を動かせるって素敵だなと思った。

表現力が羨ましかった。

 

コロナ渦によって延期になってしまったカルミナ・ブラーナの演奏会。

いつか、開催できるといいなと深く思いました。

 

 

2021年3月29日(月)

MyBunkamuraオンデマンド配信

19:00~